大判例

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東京高等裁判所 昭和27年(う)946号 判決

控訴人 被告人 藤井性一

弁護人 田中泰岩

検察官 小出文彦関与

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人田中泰岩作成の控訴趣意書に記載してあるとおりであるから、ここにこれを引用し、これに対し、左のとおり判断する。

当審における証人横島てる子、同倉持勝雄、同藤井五郎、同藤井みつ及び同寺田武に対する各尋問調書中同人等の各供述記載、原審における証人横島てる子、同倉持勝雄、同藤井五郎及び同吉原順一に対する各尋問調書中同人等の各供述記載、当審公廷における被告人の供述、原審第三回公判調書に顕れた原審公廷における証人酒井米造の供述、司法警察員富田精二作成の倉持勝雄の供述調書中同人の供述記載、司法巡査酒井米造作成の倉持勝雄及び藤井てる子の各供述調書中同人等の各供述記載並びに当審及び原審における各検証調書の記載を総合すれば、次の事実が明認される。即ち、被告人は、茨城県猿島郡長須村大字長須四千三百八番地にこんにやく畑を所有耕作していたところ、昭和二十四年十一月十日頃から同月十四日頃までの間に何者かに右畑の成熟したこんにやくだま約十五貫を窃取された。そこで、被告人方では、同月十四日の夜は、一家の者がかわるがわる右畑の見張をすることとなり、被告人の実妹横島てる子(当時藤井てる子)及び義弟倉持勝雄の両名に先に見張をさせ、翌十五日午前一時三十分頃被告人がこれと交替して自ら右畑の東側で見張を始めた。右畑の北方約三十間の箇所を幅員約八尺の里道が東西に通じ、該里道の南側は一帯の畑地で、右里道からこれとほぼ垂直に幅員約一尺の畑道が南に向かい、延びて被告人方の右こんにやく畑の西側に接着しており、該こんにやく畑の西北端近くの該畑道西側路傍に榎の木立があるが、右横島てる子と倉持勝雄が被告人と交替し、右榎の傍まで来てたたずんでいたところ、同村の藤井みつ(当時五十歳)が右こんにやく畑のこんにやくだまを窃取する目的でかます、ざる及びこんにやくだまを掘るためのつくい棒をいれた籠を背負つて右里道の方向から右畑道を南に進んで来た。横島てる子と倉持勝雄は、かかる深夜このように人の近づいて来たのを知つて不審に思い、様子をうかゞつていたところ、藤井みつは、右こんにやく畑に数間の地点まで来た際附近に人の居るのを知つて逆行して逃げ出したので、既に同人がこんにやくだまを窃みに来たものであることを知つた右両名は「泥棒、泥棒」と連呼しながらこれを追い、右畑道の上でみつを掴んだが、この騒ぎを知つた被告人も直ちに駈け付けてみつを取り押さえ、同人の背負つていた籠につけてあつた藁繩で同人の手足を縛り、直ちに被告人の実弟藤井五郎に連絡して同村巡査駐在所に右逮捕の旨を届け出させたが、駐在巡査が境地区警察署留置場の看守に赴いていて不在であつたので、同巡査の妻から同郡岩井町の警部補派出所へ電話で知らせてもらつたけれども、更に念のため五郎を直接岩井町の右警部補派出所まで赴かせて右逮捕の事実を届け出させ、そのまま警官の来場するまで現場でこれを待ち受けていたものであつて、被告人は、右藤井みつが窃盗の現行犯人たることを信じてこれを逮捕し、自己の行為を法律上許されたものと信じていたものである。以上の認定事実に徴し、藤井みつの行為が果して犯罪の実行に著手したものと解し得るか否かについて考察すれば、論旨所論のように本件のような「野荒し」型の窃盗においては、他の窃盗とは異り、窃盗の対象たる財物が舎屋もなく垣根等の囲いもない所にあつて、外部に開放されたままの状態にあることも、もとより考慮さるべき問題であり、前顕証拠によつて認められるように藤井みつが被告人方こんにやく畑の所在も、右畑にこんにやくだまの成熟していることもよく知つていて、ひたすら右畑に向かつて前記畑道を直進していたものであり、ことさら財物を物色する要もない状況にあつたことも考慮さるべきものではあるが、同様前記証拠によつて認められるように、藤井みつは、右こんにやく畑のこんにやくだまを窃取する目的で、そのための用具を携え、前記畑道を右こんにやく畑に向かつて数間の地点まで進んで来ていたものであるとは言え、右畑道は、藤井みつにとつては附近に同人方の畑もなくなんら通行の要のない道ではあつても、被告人方の右畑に限らずひろく附近一帯の畑地の共用の小道であり、また他の通路にも通じているものであるから、藤井みつが前記逃走直前まで右畑道の上を進んでいたものと認められる以上は、未だ同人が右畑のこんにやくだまに対する被告人の事実上の支配を侵すにつき密接な行為をしたものとは解し得ないのであつて、藤井みつの行為は、窃盗の実行の著手には達せず、その予備の段階にあるものと言わなけばならない。そして、窃盗の予備は、犯罪とはされていないのであるから、被告人の本件逮捕行為は、現行犯の逮捕と解することはできない。しかしながら、犯罪の実行の著手をいかに解するかは、極めて困難な問題であつて、専門家の間においても説が分かれ、本件のような事案についてかかる著手の有無を判断するにあたつては、当然に相反する見解の生ずることが考えられるものであるから、たとえ被告人の現認した事実が前説示によれば未だ窃盗の実行の著手とは解し得ないものであつたとしても、普通人たる被告人が、前記のような経過のもとに自己の畑のこんにやくだまの盗難を防ぐため見張中、深夜右こんにくだま窃取の目的でその用具を携えて右畑に近づき、人の姿を認めて逃げ出した藤井みつを前叙のように窃盗の現行犯人と信じて逮捕し、直ちにその旨を警察署に通報して警官の来場を待ち、自分の行為を法律上許されたものと信じていたことについては、相当の理由があるものと解されるのであつて、被告人の右所為は、罪を犯すの意に出たものと言うことはできない。原判決は、藤井みつにこんにやくだま窃取の意図のあつたことについては一応疑われる程度のものと解し、被告人が藤井みつを右こんにやくだまを盗みに来たものと即断して不法に逮捕し、これにより同人に治療約一箇月を要する右上膊捻挫傷等を負わせたものと認定し、被告人の本件所為については犯意を阻却しない旨判断した点において、上叙の認定及び判断と反するものであつて、原判決には、この点において論旨所論のように判決に影響を及ぼす事実の誤認及び法令適用の誤が存するものと言わなければならない。論旨は、理由がある。

よつて、刑事訴訟法第三百九十七条第四百条但書により原判決を破棄して当裁判所において更に次のように判決をすることとする。

本件公訴事実は、ほぼ原判示事実と同趣旨であつて、ただ公訴事実においては、被告人が逮捕行為以外に藤井みつを殴り又は蹴り、同人に対し約一箇月の治療を要する右上肢捻挫兼腰部打撲傷を与えたとしている点が原判示事実とは異るのであるが、本件逮捕行為に不法性の認められないことはさきに説明したとおりであり、なお、前顕証拠及び医師寺田武作成の藤井みつに関する経過書と題する書面中昭和二十四年十一月十五日午前十一時三十分の初診の際体表に創傷、皮下出血、腫張等の異常を認めなかつた旨の記載のあることを総合して判断すれば、被告人が藤井みつに対し逮捕行為以外の暴行を加えて右のような傷害を負わせたものとは認め難いものと言わなければならない。従つて、被告人の本件行為については、犯罪の証明が充分ではないものであるから、刑事訴訟法第四百四条第三百三十六条後段により被告人に対し無罪の言渡をすべきものである。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判長判事 谷中董 判事 荒川省三 判事 堀義次)

控訴趣意

第一点原審判決は事実誤認があるにつき破棄を免れない。

一、原審判決は「同人(藤井みつ)が右窃盗に着手した事実を確認し得る証拠はないからこれを現行犯と断定することは出来ない。従つてこれを逮捕することは不法であると言える」と判示するのであるがこの点につき原審挙示の証拠を検案すると、

(一)倉持勝雄の尋問調書中、(イ)「……交替して私は茶の木に沿うて北に進み蒟蒻畑と他の畑の間を通つて二本ある榎の木南側の方に来たのです。てる子さんは棕櫚の木のところより蒟蒻畑を横切つて榎のところに来て、そこで小便をしていたら蒟蒻畑でがさがさする音がするのでてる子さんが誰だというたら北の方に逃げ出したのでそれを追つててる子さんが逮えたのです」(ロ)「どこで逮えたか」「里道より小道に入つて北側の榎の所で逮えました」(ハ)「私はてる子さんの後から追つて行つて被害者のかごを持つていました、そこでてる子さんが『何しに来た』と云つたら『ぬか買いに行く』といつているとき……兄(被告人)が来たのです。」(ニ)「被害者の服装は」「半てんにもんぺをはいていました履物は朝になつてから草履があつたのでそれを履いて来たもんだなあと思いました」(ホ)「当時被害者はかんべんしてくれかんべんしてくれと云つていたか」「云つていました。又警察には話をしないでくれとも云つていました」。

(二)横島てる子証人尋問調書中、(イ)「夜中の一時か一時半頃兄(被告人)が交替に来たので私と勝雄は家に帰えることになり私は見張りして居た場所より畑を斜に横切つて南の方の榎のところに来て勝雄と二人でそこで小便などたれて約五、六分位居り私が小便をたれて立つたら蒟蒻畑に入つたところに誰か居たので『誰だ』と云つたら逃げ出したので私が追つて被害者にかぢりついた上『今頃何んだ』ときいたら『ぬか買いに行くんだ』と云つていました」(ロ)「そうしたら(藤井みつは)『後はやらないからかんべんしてくれ』と言つていました」(ハ)「証人が『誰だ』と云つたときは被害者は蒟蒻畑に居たのか」「そうです」(ニ)「証人等は被害者が里道を通るのを引ずり込んだのではないのか」「そのような事はありません」(ホ)「つくい棒と云うのは里芋掘るのに使うか」「里芋を掘るのには鍬を使いつくい棒というのは蒟蒻掘のとき使うものです」

(三)藤井みつ尋問調書(イ)「私は自分の畑に里芋掘りに行くため三時か三時半頃かごとざるとつけつい棒をかごの中に入れ家を出て県道を横切つて里道に入り現場附近の桐の木のところへ行くとてる子と倉持勝雄に逮り『今頃何処へ行く』と云つて小道にひきずり込まれたのです」(ロ)「当時被告人の蒟蒻畑が現場附近にあつたのを知つているか」「知つていました」(ハ)「当時の服装は」「もんぺにわら草履をはいて行つたのです」「普通は地下足袋をはきますがその晩は時雨など来て暖かつたので……草履をはいて出たわけです」「証人の家には万能や鍬はあるか」「あります」

(四)被告人昭和26・6・14後藤検事に対する供述調書(イ)「(逮えたときは)誰であるか判りませんでしたが、其の人間が性一さんもうやらぬから勘弁して呉れと申して自分の氏名を云いましたので初めてそれが近所の藤井みつということがわかりました」(ロ)「そのとき同人(藤井みつ)は背負籠を背負つて居りモンペをはいて居りました」

二、依つて以上の各証言を綜合してみると〈1〉十一月十五日午前一時頃に〈2〉かごの中に叺を入れてそれを背負い〈3〉草履をはき〈4〉蒟蒻を掘るのに専ら使用するつくい棒を持ち〈5〉自己の蒟蒻畑がそこになく他人の蒟蒻畑であることを承知して、犯行の現場にやつて来たことは間違いない所である。この中特に注目すべきはつくい棒の存在であり、里芋を掘るには決してつくい棒では掘れず、鍬又は三つ又を使用するのが農家に於ける公知の事実である故、みつの「里芋掘りに行つた」との証言は自らの矛盾を招いているものである。且みつは被告人等に逮捕されたとき「もうやらないから勘弁してくれ」と謝罪しているのであり、この証言は、みつは否認しているのであるが、勝雄、てる子、被告人の三人は一致して聞いているのであるから此の三人の証言は措信し得べき証言であり、然りとすれば犯行直後の生理的、衝動的証言は、証拠力の状況的保障があることは米法に於てもみとめられている点からして、この点を綜合するとみつに蒟蒻窃盗の犯意があつたことは充分に判定出来るのである。

三、次にみつが蒟蒻畑に侵入したかどうかであるが、この点につきみつは否認しておるが、勝雄てる子の証言に依れば、両人は明らかにみつが蒟蒻畑に侵入し、てる子が「誰か」というたとき、蒟蒻畑から逃げ出したことを供述している。みつの否認は、若し侵入したという証言をすれば、自らの刑事責任を招くことは充分に察せられる以上、みつにして否認の挙に出ることは人情として当然であり従つてその否認にはなんら信憑性は認め難いのである。又前述の如く、みつに蒟蒻窃盗の犯意があつたことが客観的に認定出来るのであるからこの点からみても、蒟蒻畑に侵入したであろうことは予想出来るのである。故に勝雄、てる子の証言は充分に客観的に信憑性を具備しているものと言えるのである。

四、若し一歩譲つて、三に認定せる如く蒟蒻畑にみつが直接に侵入したのではなかつたにせよ、みつが前記述の如く自己の家を出るときから蒟蒻窃盗の犯意を有し被告人の蒟蒻畑に近接して来た(原審判決に依れば二十間余)ことは疑なく、且つ、夫れも蒟蒻畑に侵入するのが目的で近接して来たことも疑う余地がない。

五、然らば以上の如きみつの事実行為は果して原判示の如き窃盗の着手にはならないかどうかが問題なのである。抑々犯罪行為の実行の着手は、犯意の飛躍的表動のありたる場合(牧野博士)、又は具体的に犯罪事実を完成する危険なる行為をなしたる場合(リスト)又は犯罪構成要件に属する挙動及び実行に直接密接する挙動に出た場合(フランク、滝川博士)等学説上に争があり、之を抽象的に理論ずけることは、極めて困難であり、且、実益のないことである(フランク)。故に果して実行の着手かどうかは具体的事実に則して考察されねばならない。判例も又抽象的な理論を以つて着手を認定せず、各本条犯罪の各形態に基いて之を認定しているのである。今窃盗についての着手を論じた代表的判例を考察してみると大正6・10・11(刑録23輯一〇七九P)は「窃盗罪の成立するには他人の事実上の支配内に在る他人の財物を自己の支配内に移すことを要す故に他人の財物を領得する意思に出ずる行為と雖も未だ他人の事実上の支配を侵すに付き密接せる程度に達せざる場合に於ては窃盗罪に着手したるものと謂うべからず」として未遂理論が既進理論とは独自な構成を形成するものであることの前芽を示し、即ち窃盗の着手ありと言えるには「財物に対する他人の事実上の支配を侵す」行為それ自体がなくとも「他人の事実上の支配を侵すに付き密接せる程度に達」する行為があれば既に着手ありたるものと承認しているのである。更にこの判例は昭9・10・19(刑集13巻一四七七頁)の判決に「家宅に侵入したる一事を以て窃盗罪の着手と謂ふ能はざるは勿論なりと雖も窃盗の目的を以て家宅に侵入し他人の財物に対する事実上の支配を侵すに付密接なる行為を為したるときは、窃盗罪に着手したるものと謂うべし」として前判例を積極的に展開していて「金品物色のため箪笥に近寄りたるが如き」行為は着手であるとしているのである、

六、飜つて本件に於て、問題となるのは「野荒し」型体の窃盗である点である。野荒しの特徴は窃盗の対象である財物がなんらの保護をうけずに存在していることである。つまり芋や菜や苗が人の見張りもなく家屋内にもおかれず、垣根等の囲いもないのが常態なのである。之らのものがそのような状態に放置されながら一般に平和と秩序を保つて来たのは、高度の人間の道徳的良心に秩序維持の拠り所を求め、且つそれが実行されて来たからである。故に一旦それが野荒し的窃盗を蒙るとするや、寡少の人員で、且一ケ所に決して自己の田畑が集中してはいない農家に於ては之に対処する道はなく、仮令見廻り、張り番等をなしたにせよ奔命に疲れるのでなんら実効を上げ得ないのが普通なのである。(本件の如く偶々見張りの者に逮捕された如きは稀なる事件であり本件と雖も数回の被害の後に逮捕したものである)仍て、野荒しの実行行為を認定するにつき、一般の忍び窃盗等の如きと同様の観念を以つて臨むとすれば野荒しの発見逮捕は殆んど困難に属し、伝統的な農家の田畑の産物保護に対する観念は根本から破壊され、農家は法の秩序に対する不信と憤懣を抱くに至るであらう。

七、更に案ずるに、前記判例の財物近接説は、家屋侵入の場合なのであり、窃盗の故意を以つて家屋に侵入してもそれのみでは窃盗の着手にならないとしても家屋侵入はそれのみで刑法百三十条の別罪を構成するのであるから、その事案に於ては妥当であるかもしれないが、野荒しの場合、畠の侵入を前記の家屋の侵入と同視し窃盗の故意を以て畠に侵入してもそれのみを以つては未だ実行行為の着手がないとすれば、野荒しに於ける畠の侵入は放任行為となり著しい法の欠陥を生ずるに至るであろう。されば畠への侵入は決して家屋の侵入と同視されるものではなく、前記判例の箪笥等への近接と同視さるべきものと愚考するのである。つまり箪笥への近接は、箪笥内の特定された財物に対する犯意の飛躍的表動が客観的に認定される故、着手ありと判例はするのであるが、野荒しに於ても畠への侵入は既に畠の特定された作物に対する故意の飛躍的表動とみられるのでありこのいみに於て前記判例の財物の事実上の支配を侵すに密接なる行為ありたりと認定されるし、且つそう認定してこそ野荒し窃盗に於ける行為判断の妥当性を完うしうるものと考えるのである。

八、故に、勝雄、てる子が「誰か」と誰何してみつが逃げたのを追いかけて之を逮捕したことは刑事訴訟法二二三IIの準現行犯の逮捕に相当するのであつてなんら不法はない。

九、仍つて本件に於て窃盗の故意は一応疑はれるが、実行の著手がないから現行犯ではない。従つてその逮捕も不法であるという原審の判断は誤認であり破棄を免れないと思料するものである。

第二点若し前記第一の事実の誤認がないとしても、原審判決は、判決に影響を及ぼすべき法令の適用に重要なる誤りがあるにつき破棄を免れない。

一、即ち原審は「被告人の当公廷における供述によつても被告人は著手の事実を認識しないで右みつを逮捕したのであることが認められるから被告人がたとい法律上差支ないものと信じたとしても、それは法律の錯誤であつて事実の錯誤があつたものといえないから犯意を阻却しない」としているのであるがこの点につき原審の認定は違法であると思料するものである。

二、被告人がみつを逮捕するとき、どの程度に諸条件を認識していたかを原審挙示の証拠によると、

A被告人の昭和26・6・14付後藤検事に対する供述調書中、a「(てる子と勝雄が)怪しいものを見つけて大きな声で何か云つているのを聞きつけて私は……すぐかけつけて行き夫れを北の榎の処で二人が捕えている人物を私もそこで捕えました。」b「その時は誰であるかと云う事は判りませんでしたがその人間が性一さんもうやらぬから勘弁して呉れと申して自分の氏名を云いましたので初めてそれが近所の藤井みつと云うことがわかりました。」c「そのとき同人は背負籠を背負つて居りモンペを穿いて居りました」d「私は同人の言葉によつて前に盗みに来たのも同人と思い夜中に右の格構で私の蒟蒻畑の処え来たのだから又蒟蒻芋を盗みに来たものと思つて捕えても差つかえないと思いました。」e「(それで)同人を後手に藁繩で縛つて逃げられたり尚私の考えは一人では多量に盗めぬので後から運搬する者が来るのだろうと思つてそれを捕える必要もあるから、みつを寝かしておかなければ悪いと思つてその場に倒して、夫れから寒いと思つて上からこもをかぶせてやりました。」f「私は家に帰えるてる子に対して警察へ届ける様に申しつけておきました」「いずれ警察の人が来てくれるものと思つて心待ちにしておりました。」g「私は同巡査に現場を説明して家へ帰りました。」h「私は警察へ連絡して其の指示をまつているのだから勝手に連れて行つては困ると申しました。」i「(駐在所は留守だつたので)岩井町の派出所へ(五郎をして)届けに行つて届けた所すぐに行くから其のまゝにしておけという話であつたのでそのまゝにしてあつたのであります。」j「みつを縛つた繩は同人が其の時背負つて居た籠についていたものです。」k「同人は……ずつと蒟蒻畑の方へ来て居た事は其の当時良くわかつておりましたから私は同人が蒟蒻泥棒であると云う事を察した訳であります。

B被告人の原審公判に於ける供述中、a「警察に連絡したらすぐ行くからそのまゝにしておけと云うのでそのまゝにしておいたのです。」b「てる子と勝雄は被害者みつが当時蒟蒻畑に入つたというのか」「そうです……蒟蒻畑にかゞんでいたと云つていました。」c「被告人は泥棒と確信したのか」「そうです」d「私は泥棒を逮えたから警察に行つてこいと云つたもので当時(警察にとどける前)被害者の名前はわかつていませんでした。」e「被告人は被害者が掘つているのを現認したのか」「現認しません。」「現認しなくとも逮えることが出来るものと思つたのか」「そうです。」

C倉持勝雄の証人尋問証書 a「又重の兄が煙草耕作組合の総代をやつている時、煙草を盗まれそのとき警察に届出たのです。そのとき繩や足跡が残つていたのですが富田刑事が来て現行犯でなければ逮えられないということをいつたのです。」

三、(A)元来刑法の分野に於て「法律の錯誤と犯意」との問題に関しては刑法学上最大の論争の焦点として未だに定説も解決もみていないテーマである。法律を知らなかつた行為及誤解した行為が果して犯意を阻却するか否かの問題はしかく簡単に原審判決の如く結論を出しえないのであつて、刑法三十八条第三項の本旨そのものの妥当なる解釈の上に先ずその事実行為の価値判断を求めてゆかねばならないと考えるのである。

(B)刑法三十八条第三項については各種学説及び判例に論じられておる所であり詳説を避けるがそのよつて来たる本旨は、刑法は可罰条件としては違法性構成要件該当性と並んで責任性を必要条件としているのであつて、責任性として刑法は故意と過失を規定している。而して故意のない行為は第三十八条第一項に於て可罰の対象にはならないのである。然らば故意とはなにか。現在の判例は犯罪事実の認識あれば足るとしているのであるが、之に対しては違法の認識を必要とするという客観主義学説の有力なる反対論のあることは著明な事実である。故意の概念に於て既に論説の岐れる所、法律を知らざる行為が故意にいかなる関係に立つかに於て又論駁多々生ずるも又必然の趨勢である。而して現行日本刑法に於て三十八条第三項に「罪を犯す意なしとなすことを得ず」と規定した所以のものは国法は公布されているものであり、法治国家の国民たるもの之を知り且遵奉する義務あり、故に公布されている国法を何らかの阻害があつて之を知らなかつたとしても前記義務が国民にある以上、行為について刑法上責任は問はれなければならないと言うのが根本観念になつているのである。然し刑法は法治国家の特徴として年年歳歳多数の公布をみる法律をすべて認識するの不可能を予想し「但シ情状ニ因リ其刑ヲ減軽スルコトヲ得」と第三項に但書を附しているのである。

(C)然しこの第三十八条第三項が制定されたのは明治41年であつて爾来四十数年日本の国家も又刑法の概念も変遷をみている今日該条文について現下の国家に於ける妥当なる解釈が求められねばならないと思考するのである。又刑法学界に於ては該条項に関し、疾にその欠陥を指摘し、刑法全般より法律の不知について妥当なる解決を得んとして思惟熟考を積ね、臨時法制審議会刑法改正の綱領第二十五に「法律の錯誤に因る行為は情状に因り刑を減免することを得べき規定を設くること」を決議し、因つて刑法改正予備草案に於て第九条第三項に「法律を知らざるを以つて故意又は過失なしと為すことを得ず、但し情状により其の刑を減軽又は免除することを得」と規定し、該規定の緩和を図つたのであるが故に該審議会に於ては一九三〇年ドイツ刑法及スイス新刑法を勘案し、同会の最終案としての刑法改正仮案に於て第十一条に第一項「法律を知らざるを以つて故意なしと為すことを得ず、但し情状により其の刑を減軽又は免除することを得」第二項「法律を知らざる場合に於て自己の行為が法律上許されたるものと信じたるにつき相当の理由あるときは其の刑を免除す」と規定しているのである。而し本仮案は制定の運びに至る直前、国家の戦争突入により今日迄明文化されていないのであるが、その改正の精神は今日に於ても脈々として流れているのである。

(D)且つ、学者は右仮案十一条第二項に於て「免除することを得」としたことにつき強硬なる反対を示し一九三〇年ドイツ刑法に於けるが如く(ドイツ刑法に於ては「行為者の責に帰すべからざるものであるときは罰せず」と規定する)、寧ろ相当なる理由あるときは完全に責任性を阻却し「罰せず」と規定すべきであることを主張し続けているのである。

現行刑法三十八条第三項の規定が法律の不知を賄うに狭きに失し、幾多事案の解決につき妥当性をかく憾みがあるに鑑み、右の如き改正案の決議とその通説化をみている今日、この立法論の趣旨を現行刑法の解釈に最大限に応用してこそ真実に刑罰の目的を達するものと愚考する次第である。

(E)然らば現行刑法としては如何にすべきか、之を判例にみるに、昭7・8・4大審院の森林窃盗に於ける判決に於て「……竹藤区の認許する慣例にして差支なきものと誤信したるものにして之につき相当の理由ありたるものと認むるを得べく……従つて被告人の本件行為は罪を犯すの意に出でたるものと為すを得ざるが故に窃盗罪を構成すべきにあらず」として「慣例」を「誤信した」るにつき「相当の理由」がある場合「罪を犯すの意に出でたものとなすを得」ないとして、犯意の阻却を認めたのである。

又昭7・8・26台湾高等法院の判決についてみるに「……犯意の成立に付き現実に違法の認識の存することを必要とせざる趣旨は……責任能力を有する通常人につき違法の認識を期待し得るの点に存するものなる以上具体的の場合に於て斯る違法の認識を欠如し而も社会の通常人に付きても当該の場合斯る違法の認識を期待し得ざる場合なるに於ては犯意あるものと為すを得ざるもの即ち斯る場合は刑法第三十八条第一項本文の例外の場合たる同条第三項本文の場合に該当さぜるものなるを以つて犯意の成立を阻却し同条第一項本文に所謂罪を犯す意なきものと為さざるべからず、換言すれば犯罪構成要件を認識しつつ敢て之を実行したる者と雖も之を実行するも法律上差支なし、即ち斯る事実を実行するも法律上罪とならずと誤信し、而も其の誤信に付如上相当の理由ありと認めらるるが如き場合に在りては犯意を阻却し罪を犯すの意なきものと解するを相当とす」との新例を拓いたのである。この三つの判例から掬み取れる理論は「法律の錯誤」(誤信)につき相当の理由があるときは犯意を阻却し」それは既に第三十八条第三項によつて賄はれるものではなく「罪を犯すの意なき」行為として第三十八条第一項の適用をうくべしとの理論を展開しているのである。然してその理論の展開は、叙上の刑法改正仮案第十一条の理論と同一にして且同条が「免除す」と規定したのに対し第三十八条第一項を適用することにより学説の要望する「罰せず」の規定を用いたのである。私はこの二判例の如く第三十八条第三項を解してこそ真にこの規定の運用を賄いうるものと信んずるのである。

(F)然して「相当なる理由」とはいかなる理由を言うのか、ドイツ刑法では「行為者の責に帰すべからざる理由」という表現を用いており、スイス新刑法は「十分なる理由」と規定している。前述判例は「社会の通常人に付きても当該の場合斯かる違法の認識を期待しえざる場合」として理由の外廓を示している。学者(牧野博士、草野博士)はこの「相当なる理由」を「過失なき行為」として定義している。抑々刑法第三十八条第三項の制定趣旨が前述の如くである所からしてその公布された法令を認識、遵奉する義務あるに拘らずその義務を遂行するにつき落度ありたる場合である故その義務の遂行につき過失あることがその前提となつているとも言えるのである。これは又学者の中では本第三項を法律的過失を犯意に準じて処罰する規定であるとの説も生ずる所以であり、又犯罪を法定犯と自然犯又は刑罰規定と非刑罰規定とわけて、法定犯又は非刑罰規定にのみ適用される規定と説く(牧野、木村)のもその法令の認識と、その認識に必要な注意義務を前提としているものであるからである。故に法令の公布に対する認識とその遵奉につき、社会人が通常人の注意義務を以つて法令に臨み、必要なる義務を尽すに落度なく、自らの行為が許されたものと信じたることにつき、過失のない場合は正に「相当なる理由」ありとして「法律の誤信」ありとしても「罪を犯す意なき場合」として第三十八条第一項の適用をうけ「罰せず」とされねばならないと思うのである。

四、然らば本件に於ては如何。被告人藤井性一の犯行の具体的行為と、その認識は叙上の原判決に引かれたる証拠の内容により明確である。依つて、当時の被告人が自己の行為を如何に認識し、且つその認識につき過失があつたかどうかゞ問題になつてくるのである。依つて前述の各証拠によつて認定される被告人の行為が果して前記の法律の誤信について過失があつたかどうかを検案するに

(A)被告人がみつを蒟蒻泥棒と判断したこと。a当夜被告人は蒟蒻泥棒を逮えるために家族(勝雄てる子)と交代で畠で見張り番についていた。それは前日同場所から多量の蒟蒻芋を盗まれたからである。そのときまで被告人には前日盗んだ者がだれであるかはわかつていなかつた。b所が同夜午前一時頃勝雄とてる子が蒟蒻畑の所で誰かを逮えて騒いでいるので跳んで行つてみると(このときそれがみつであるかどうか被告人にはわかつていない)籠を背負い、つくい棒をもち草履をはいた女であつて、てる子と勝雄からこの女が蒟蒻畑の方に近づいて来て二人をみたら逃げ出したことを聞いている。c被告人は以上のそのときの状況からその女が泥棒であることを認定したわけである。被告人は根からの百姓であるから「つくい棒」をみて直感的に「蒟蒻掘」を連想したのは当然であつて、みつが「里芋掘りに来た」とか「ぬか買いにゆく」という弁解をしたとしても仮令被告人以外の百姓がそのときその場でそれを聞いたとしても被告人と同一の考えになつたことは容易に想像される所である。このつくい棒の存在は、みつが窃盗を否認したとしても所謂キメ手になるものであつて、この点を無視してひとり被告人の犯罪性のみを論ずることは著しく正義に反するものである。一歩譲つてつくい棒の存在のみではその犯行を認定することは不充分であるとしても、時間と場所と、逃げた行動等の客観条件からその嫌疑が濃厚であると被告人が認定したとしても些も不思議はないのである。恐らく誰が見張り番しても被告人以外の判断は出来なかつたであろう。故に原判決が被告人のこの認定を「即断」と論んじているのは首肯し難く被告人の認定には過失はないのである。

(B)みつを現行犯と認定したこと。a現行犯又は準現行犯の定義は刑事訴訟法第二百十二条に「現に罪を行い又は現に罪を行い終つた者」「左の各号の一つにあたる者が罪を行い終つてから間がないと明らかに認められるときはこれを現行犯とみなす」として四号に「誰何されて逃走しようとするとき」としている。この定義からみると犯罪の実行行為に着手するか、既遂があつたときであることは明らかである。而してこの現行犯(準現行犯を含む)は何人でも逮捕状なくして逮捕できる(刑訴二一三)のである。b然し、考えるに刑訴の現行犯に該当するかどうかは極めて明瞭なる場合以外は、所謂訴訟状態にある段階では容易に断定出来ないのである。換言すれば捜査は捜査官の罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があるとき(刑訴一九九)開始されるのでそれは厳密ないみの犯罪の真実性を示すものではなく捜査官の主観的認識なのである。だからそのとき確信があつてもその後の状況で嫌疑がなくなることは充分ありうる。だからといつて捜査官の主観的認識が不法であると非難することは出来ない。それは段階的なものであつて所謂訴訟状態なのである。若し捜査官の認識が後に捜査又は裁判で覆がされた場合捜査官の認識を常に不法であると論じていては凡そ裁判は成立せず、捜査は不可能であろう。c故に「現行犯」であるかどうかの認識も、裁判官が裁判の結果そうでないと認定を下したからと言つて現行犯を逮捕したことが直ちに不法であるとは決して言えないのである。大審院に於ても「捜査ノ当初ニ於テ現行犯タリト認メ得ベキ場合ニ於テ之ニ於テ其ノ手続ヲ進メタルトキハ仮令其後ニ判決ノ結果該犯行ハ無罪ナリト確定シタリトスルモ遡リテ当初ノ手続ヲ無効トスベキニ非ズ」(大正14・2・7、大正13(れ)二一三二号)と論じている所である。d被告人がみつを蒟蒻泥棒だと認定したことは前述の通りであるが、現場に於て逮えた以上それが現行犯であると思い、直ちにその自由を拘束し警察に知らせた行為は決して過失はないのである。犯罪実行に著手しなければ刑訴の定義に合致した現行犯であるか否かは、百姓にすぎない被告人の知る所ではなく又一般人の法律常識を以つてしても刑訴法に所謂「著手云々」のことは知らないのが普通である。且つ着手があつたかどうかはその後の厳密な裁判に於て初めて認定出来る問題であり而も本件に於ては控訴弁護人が論じている如く「著手」がないとは決して言えない事案なのである。故に原判決が「著手云々」の論を以つて現行犯逮捕が不法であると認定したことは正に誤謬であるといえる。e一歩譲つて原判決の論ずるが如く刑訴の現行犯の定義に合致しているか否かを認識していなければ逮捕出来ないとしても、刑訴二一二条は昭和二十四年一月一日から施行をみた新法中の規定であり、それまでの旧刑訴に於ては百三十条第二項に「兇器賍物其ノ他ノ物ヲ所持シ誰何セラレテ逃走シ、犯人トシテ追呼セラレ又ハ身体被服ニ顕著ナル犯罪ノ瘍跡アツテ犯人ト思料スヘキ場合ハ現行犯人其ノ場所ニ在リタルモノト看做」し、百二十五条一項に「現行犯人其ノ場所ニ在ルトキハ何人ト雖之ヲ逮捕スルコトヲ得」とありて通常人の逮捕規定があり(新法二百十四条)この通常人が百三十条第二項の行為をなすに際して「怪しみて人を誰何し其の者逃走せば逮捕することをうるや」の質疑に対し刑事局長は「逮捕スルコトヲ得」(大正12・4・19)と回答しているのでありこの規定には着手があつたかどうかは逮捕の要件にはなつていないのでありこの見解は昭和二十三年十二月一日まで適法として一般に認められていたのである。而して本件は昭和二十四年十一月十五日の事件であり新法施行僅か一年に満たない時日のことでもある。之が統制法か法人税法等の法律の改正でありそれを知らなかつたとしたら原判決の如き見解も妥当であるが一般法にすぎない刑事訴訟法の改正につき通常人がかゝる細部の点の改正まで認識していると考え又その認識を要求し、それがない場合は、法律の錯誤につき過失あるものとして逮捕を不法と論ずるのは不当である。f以上の如く被告人がみつを窃盗の現行犯として認定したことにつきたとい着手の事実の認識がなかつたとしても、みつを現行犯とみた点につき被告人は通常人としての考えに従い通常人としての注意義務を尽したのであつて仮令被告人でなくとも、その時その場に於てみつを逮えたら現行犯だと思い、且つ逮捕出来ると考えるのが通常人の法常識である。被告人に対しても通常人以上の注意義務を課せられてはならないのであつて、通常人としての注意をつくした以上現行犯だと思つたことにつき被告人には過失はないのである。

(C)みつを縛つたこと。a被告人はみつの行為を蒟蒻泥棒の現行犯だと思い警察にその指揮を仰ぐ(てる子にことずけて直ちに五郎を駐在所に連絡せしめている)一方、みつの共犯の来襲に備えてみつを縛つたのである。又被告人は勝雄の証言にもあるとおり「現行犯でなければ窃盗の犯人とは断定出来ない」と前に煙草葉泥棒のときに刑事から言はれ苦い経験をしているのであつて、その点からしてもなんとか警察がくるまでみつを現場にとめておかねばと考えたのである。被告人がみつを現行犯だと考えた以上叙上の行為は当然の結果であつて、被告人以外の者であつても当然同一行動に出たであろう。そこには些かもみつを縛ることにつき不法の意思はないのである。飽くまで警察官が来るまでみつの自由を拘束しておこうとし拘束するにつき共犯が来る(被告人はそう考えていたそれは十貫目からの蒟蒻芋を女一人では運べないからである)以上、手で捕えていたのでは続けて見張りが出来ないから取敢ず一時逃げないように手足を縛つたにすぎないのである。被告人が前から縛る意思のなかつたのは、みつを縛るにつきみつの持つていた繩を用いたのでも掬みとれる。被告人は全く右以外の目的はなんらないのである。b五郎は駐在所に直ちに報らせたが酒井巡査が不在だつたのでその配偶者が平山警部補に電話連絡をして来てくれたのでそのまゝ帰つて来たら、被告人は五郎に更に平山警部補に届けせしめたら平山は五郎にそのまゝにしておけといつたので五郎は被告人にもそのように報せたのである(藤井五郎尋問調書)。つまり被告人としては自ら現場をはなれるわけにはゆかないので家族の者をして現行犯逮捕後の処置を叮寧に実行しているのである。平山が「そのまゝにしておけ」とは五郎には言はないと証言したとしてもそれは、法廷に呼ばれた警察官としてはやむを得ない言葉でありそれだけに措信し難く且つそれが真実であつたとしてもそれは五郎に対し主張できることであつて被告人は五郎の平山からの伝言を信じただけであつて「そのまゝにしておけ」という五郎の平山からの伝言に彼は忠実に従つたまでゞある。だからそこには過失はない。故に翌朝酒井巡査が来たとき被告人は当然の措置をやつたこととして報告し、その指示に基き繩を解き家に帰してやつたのである。そして酒井巡査はそれまでの被告人のみつに対する逮捕束縛行為につき何ら嫌疑をかけることもなかつたのである。c若し原判決の謂うが如く縛つたことが不法逮捕罪の既遂になるならば被告人こそその現行犯として酒井巡査はその場で逮捕すべきではなかつたか、現場に来た巡査すら疑わなかつたのであるから被告人につき縛つたことにつき毫も過失はないのである。

五、以上論述せる所から仮令原判決が認定した如く被告人が現行犯と思つたことが間違でありそのいみで法律の錯誤があつたとしても原判決の如く而かく簡単に「犯意を阻却しないから」とは言えないのであつて既に論じた如く被告人にはみつを蒟蒻泥棒と考え且つその現行犯だと考え現行犯ならば警察が来るまで自由を拘束出来ると考え、因つて繩をもつて縛つたのであり、各それぞれの判断につき十分の理由があり、過失はないのである。故に本件被告人の如きは、正に法律の錯誤につき過失なく、錯誤につき相当な理由がある場合であり逮捕についての故意は阻却され、刑法三十八条第一項前段の適用をうけ無罪の判決をなさるべきである。

原判決はこの点につき法令の適用に誤りがあり破棄を免れないと思料する次第である。

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